日本人の知らないもうひとつの東京の歴史
帝国軍人の気概を伝える美しい東京湾要塞
帝都防衛を担った要塞
東京観光の定番スポットのひとつであるお台場が、もとは幕末に築かれた砲台跡であることは比較的よく知られている事柄であるかもしれない。嘉永6年(1853)の黒船来航によって、外国への脅威を植え付けられた幕府が、急ピッチでの建設を計画したものだ。
やがて、幕末の動乱を経て迎えた明治維新。新政府にとっても、欧米の列強から国土を守るため、海防が最重要課題であることに変わりはない。兵部大輔だった山県有朋は列島の要塞化を主張し、なかでも帝都の玄関口、東京湾の防備がとくに急がれた。
こうして、幕末に急造されたお台場に変わって、近代的な要塞の整備が陸軍築城部によって開始された。それが東京湾要塞である。
東京湾要塞は、湾口がもっとも狭まる房総半島の富津岬と三浦半島東端の観音崎を結ぶ防衛ラインに沿って、世界最大級の人工海上要塞である3つの海堡を築いた。海堡とは砲台のために海に造った人工島のことである。海堡の築造は海中の工事とあって、当時最先端の技術をもってしても完成までには実に40年を費やした。
明治17年(1884)に観音崎、猿島、富津元洲保塁各砲台などが次々と竣工し、最終的に170を超える砲が一帯に備えられることになった。このなかには敵の上陸後、砦となって戦える堡塁もあることから、当時かなりの危機感を日本が抱いていたことがわかる。
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